2026年5月27日、消費者安全調査委員会(消費者庁)が「パーソナルトレーニングにおける事故」に関する調査報告書を公表した。2019年〜2025年の7年間で196件の事故が登録され、うち41%が治療に1か月以上を要する重篤な被害だった。本記事では報告書のデータを整理し、現場S&Cコーチの視点から「なぜ事故は起きるのか」「何をすれば防げるのか」を具体的に解説する。
この記事の目次
- 調査の概要:なぜ今、政府が動いたのか
- データで見る事故の実態
- 3つの事故発生メカニズム
- 「安全確保のための行動」が取られない理由
- 報告書が示す再発防止策
- LIME PERFORMANCEの現場から:S&Cコーチとしての指導原則
- 利用者(クライアント)が知っておくべき3つのこと
- まとめ
1. 調査の概要:なぜ今、政府が動いたのか
国民生活センターが2022年に公表した報告書では、パーソナル筋力トレーニングに関する危害相談が2017年度以降の5年間で105件に達し、4人に1人が治療に1か月以上を要すると報告された。神経・脊髄の損傷や筋・腱の損傷といった重篤なケースも含まれていた。さらに、パーソナルトレーナーについては「法的な資格保有の義務がなく、各事業者に委ねられている」という構造的な問題も指摘されていた。
この状況を受け、消費者安全調査委員会は2023年5月から3年がかりで調査を実施。筑波大学体育系教授・大藏倫博氏、順天堂大学スポーツ医学教授・髙澤祐治氏ら5名の専門委員が参加し、事故データベースの分析・アンケート・ヒアリングを組み合わせた包括的な調査が行われた。

2. データで見る事故の実態

件数が増えた背景には、パーソナルトレーニング市場の急速な拡大がある。リクルートの2023年調査によると、15〜69歳のマンツーマン指導利用率は男性5.4%・女性3.9%に上り、数百万人規模の利用が推定される。市場拡大とともに指導者の質のばらつきも広がった可能性がある。
傷病の程度:41%が「1か月以上の治療」
| 治療期間 | 件数 | 割合 |
|---|---|---|
| 1か月以上 | 81件 | 41% |
| 1週間未満 | 40件 | 20% |
| 1〜2週間 | 31件 | 16% |
| 3週間〜1か月 | 30件 | 15% |
| 医者にかからず | 4件 | 2% |
最も多いケガの部位
腰・股関節(59件・30%)が最多で、次いで膝・足の下半身(44件・22%)、肩・腕(20件・10%)と続く。脊椎や腰椎の圧迫骨折といった重篤な事案も複数確認されている。
被害者の年代:20代から80代まで幅広く
最多は40代(51件)だが、20代から80代まで全ての年代で事故が発生している。若年層であっても過負荷による受傷リスクは存在し、高齢者については骨密度の低下が重篤化のリスク因子となっていることが事例から示されている。
事故の93%が「運動の選択・強度・継続」と関係
器具落下など運動と無関係の偶発的事故は14件(7%)にとどまり、残る182件(93%)は「指示された運動を実施してケガ」「負荷が重かった」「指導が不適切」など、運動の選択・強度設定・継続の判断に関わるものだった。
3. 3つの事故発生メカニズム
報告書は事故の発生過程を「①身体状況の共有→②運動プログラムの策定→③運動の実施」という3段階のプロセスで整理し、いずれかの段階で安全確保のための行動が十分に行われないことが事故につながると分析している。
メカニズム①:身体情報が十分に共有されていない
50代女性の事例では、人間ドックで骨密度の低下を指摘されていたにもかかわらずトレーナーに伝えていなかった状態で体幹トレーニングを行い、腰椎圧迫骨折に至った。トレーナーが指示した「体育座りから体を丸めてゆっくり起き上がる動作」は、腰椎への内圧・外圧を同時に高めるため、骨密度が低い中高年女性にとってリスクの高い運動だった。
メカニズム②:不適切な運動プログラムが策定される
腰痛のある消費者に対し、初回から重りを追加したバーベルスクワットを提示したケース(東京都消費者被害救済委員会の事例)が典型例として挙げられている。クライアントが「たぶん持てないと思います」と伝えたにもかかわらず指導が継続され、1回目のスクワットで腰を痛め入院した。
メカニズム③:不適切な運動が実施・継続される
トレーニング中に「限界です」「膝がこわい」などと申告したにもかかわらず、「ここを乗り越えないといけない」「大丈夫」などの応答で継続させられた事故が複数確認されている。消費者アンケートでは、指示が無理だと感じた428名のうち16%(70名)が「がまんしてトレーニングを続けた」と回答している。

4. 「安全確保のための行動」が取られない理由
報告書は安全確保が不十分になる背景として、以下の構造的要因を指摘している。
まず指導者側の問題として、業務フローやマニュアルが「ない」と回答したトレーナーが22%に上る。「資格取得時や研修で安全管理を学んだ」は90%が「はい」と回答しているが、「後から振り返ると少し負荷をかけすぎた」と感じることが「頻繁にある」「たまにある」と答えたトレーナーの合計は44%に達した。知識があっても実践に落とし込めていないケースが相当数あることを示唆している。
次に構造的な問題として、民間資格が100種類以上存在し、1日講習で取得できるものから4年制大学卒業が条件のものまで品質に大きなばらつきがある。また、事業者横断的な事故情報の収集・共有体制が存在しないため、業界全体での学習が進みにくい状況にある。
消費者側の要因としては、「ケガのリスクについて何も知らない」が12%、「無理だと感じても我慢して続けた」が16%、「体調が優れないときでも実施することがある」が30%に上る。クライアントへのリスク教育が不十分なことも事故につながる一因だ。
5. 報告書が示す再発防止策
調査委員会は経済産業大臣・文部科学大臣・厚生労働大臣・消費者庁長官に対して意見を提出し、以下の方向性を提言している。
仕組みの整備(行政・業界団体に求めること)
安全なパーソナルトレーニング提供のために最低限必要な知識・技術の標準化、事業者横断的な事故情報の収集・分析体制の整備、指導者に求められる能力要件の明確化が挙げられている。EUでは2026年3月にフィットネスクラブの設備・運営要件とトレーナーの必須スキルを定めた欧州規格(EN17229:2026)が発効しており、日本でも同様の基準設定が求められていると報告書は指摘する。
トレーナーが直ちに取るべき対応
報告書が挙げるトレーナー側の安全確保行動は以下の通りだ。事前に既往歴・服薬・骨密度低下の有無などを把握すること、運動種目・負荷・回数・フォームを身体状況に照らして適切に選択すること、実施中の動作・表情・申告を踏まえて補助・修正・中止を判断すること、そしてクライアントが申告しやすい環境をつくることが明示されている。
消費者への情報提供
トレーナーへの情報提供(既往歴・現在の痛み・骨密度・服薬状況)の重要性、無理だと感じたときに意思表示する権利、体調不良時の中止の選択肢について、利用者側への周知強化も提言されている。
6. LIME PERFORMANCEの現場から:S&Cコーチとしての指導原則
LIME PERFORMANCEでは、日本男子卓球ナショナルチームをはじめとする競技アスリートから一般クライアントまで、S&Cの指導を行っている。今回の報告書が整理した「3段階プロセス」は、スポーツ科学に基づく指導体系と完全に一致する考え方だ。
初回セッション前には必ず健康チェックリストへの記入を求め、既往歴・骨粗しょう症のリスク因子・服薬状況・直近の痛みを確認する。これは習慣として定着させるべき工程であり、「なんとなく口頭で聞く」では不十分だ。PAR-Q(身体活動準備質問票)を参考にしたスクリーニングを標準化することを推奨する。
運動プログラムの策定においては、初回はつねに保守的な負荷から始める原則を守る。スポーツ経験があるクライアントであっても、特定の動作パターンのトレーニング経験がなければ初回から高負荷を設定する合理的な根拠はない。週次・月次で段階的に負荷を上げるピリオダイゼーションの考え方は、競技スポーツだけでなく一般向けパーソナルトレーニングにも適用されるべき原則だ。
セッション中は「痛みと不快感の区別」をクライアントと共有することが重要だ。筋肉の疲労感は適応の証拠だが、関節の鋭い痛みや違和感は即座に中断するシグナルである。この区別をセッション開始前に明示的に伝えることで、クライアントが適切なタイミングで申告できる環境が生まれる。
7. 利用者(クライアント)が知っておくべき3つのこと
① 健康情報は包み隠さず伝える
骨密度の低下・高血圧・過去の骨折・関節の手術歴・服薬状況などは、トレーナーがプログラムを安全に設計するための必須情報だ。「そこまで深刻ではないから」と判断して省略することが、重篤な事故の遠因になり得る。
② 「痛い・無理」はすぐに言う権利がある
トレーナーに「大丈夫」「もう少し」と言われても、自分の身体の違和感を感じたときは中断を求める権利がある。事故事例の多くで「言ったけれど止めてもらえなかった」という構図が見られるが、もし強引に継続を求められた場合はその場を離れることが自分を守る手段だ。
③ 体調不良の日はトレーニングを見送る
消費者アンケートでは、体調が優れないときでもトレーニングを行うと回答したクライアントが30%いた。睡眠不足・発熱・強い疲労感がある状態でのトレーニングは傷害リスクを高める。料金を支払っているからといって無理に参加する必要はなく、リスケジュールを求めることは合理的な選択だ。
8. まとめ
消費者安全調査委員会の報告書が示したのは、パーソナルトレーニングの事故が「運が悪い個人の問題」ではなく、業界全体の構造的な課題から生じているという事実だ。指導者の資質のばらつき、事故情報の共有不足、クライアントへのリスク教育の欠如——これらが複合して事故の温床となっている。
S&Cコーチとして言えるのは、「安全な指導」と「効果的な指導」は矛盾しないということだ。科学的根拠に基づいたスクリーニング、段階的な負荷設定、オープンなコミュニケーションこそが、長期的な成果につながるアプローチであり、それが真のプロフェッショナリズムだと考える。
本報告書を受けて今後、業界の資格・認定制度や安全基準の整備が進むことが期待される。その動きをウォッチしながら、LIME PERFORMANCEでは引き続き科学的根拠に基づいた安全で効果的な指導を実践していく。
LIME PERFORMANCE について
LIME PERFORMANCEは、CSCS・NSCAマスターコーチを保有するS&Cコーチが主宰する、大学スポーツ・実業団・ナショナルチームへの指導を行う専門組織です。科学的根拠に基づいた安全で効果的なトレーニング指導を提供しています。
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参考文献・引用元
消費者安全調査委員会「パーソナルトレーニングにおける事故」消費者事故等調査報告書(令和8年5月27日)
https://www.caa.go.jp/policies/council/csic/report/report_024/

